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江戸時代のアーキテスト 藤堂高虎

情シスにいると、「アーキテクチャ」や「アーキテクト」といった用語に接する機会はないだろうか。アーキテクチャは、もともとは建築物の設計や様式をあらわす用語。転じて、設計(英語のdesign)と似た意味で使われることが多い。わたしは、Oracleデータベースを使っていた時に、その仕組みをあらわす用語としてアーキテクチャの言葉が使われていたのが印象深い。

アーキテクチャとアーキテクト

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では、アーキテクチャと設計はどう違うのか。「アーキテクチャ vs. デザイン」という記事は、アーキテクチャとデザイン(設計)の違いをわかりやすく説明している。アーキテクチャは、「デザイン(設計)の中で要件を包含した部分」というのだ。

このアーキテクチャの定義は、「アーキテクト」の定義とも整合性がある。情報処理試験の一つである「システムアーキテスト試験」では、対象者像を「高度IT人材として確立した専門分野をもち、ITストラテジストによる提案を受けて、情報システムまたは組込みシステムの開発に必要となる要件を定義し、それを実現するためのアーキテクチャを設計し、情報システムについては開発を主導する者」としている。

要件の定義とその要件に応じたシステム設計(アーキテクチャ設計)というのは、まさに「デザイン(設計)の中で要件を包含した部分」を考えることだといえよう。

藤堂高虎の城作り

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藤堂高虎(1556~1630)という、戦国時代から江戸時代にかけて活躍した武将がいる。

高虎は、主君を何度か変えたり、流浪生活をした後、1576年に豊臣秀吉の弟である豊臣秀長に仕えた。この頃に織田信長は安土城を建築しており、高虎も関わっていたかもしれない。その後の高虎は、秀長のもとで数々の武功を上げる一方、配下で大和郡山城(奈良県)の普請などに関わっている。また、石垣普請の専門集団である穴太(あのう)衆や、大工などといった職人たち、茶人、建築家として名高い小堀遠州との交流がこの時期に生まれた。

その後、豊臣秀長が亡くなり主家が断絶した1595年、いったんは出家するも秀吉に説得されて伊予板島(後の宇和島)7万石の大名となる。この時に築城した宇和島城は1601年に完成した。1598年に秀吉が没し、1600年に関ヶ原の戦いが起きる頃には、藤堂高虎はすっかり徳川家康に近づいていた。

関ヶ原の戦いの後、藤堂高虎は20万石に加増されている。この時に築城した今治城は1604年に完成。1608年に高虎は伊勢に加増移封されて津藩主となり、津城と伊賀上野城の大改修を行った。

高虎はその他にも、天下普請(江戸幕府が諸大名に命じて行った土木工事)で築かれた近江膳所城(1601年)、丹波篠山城(1609年)などにも関わっている。

このように、藤堂高虎が関わって築かれた城には、宇和島城、近江膳所城、今治城、津城、伊賀上野城、丹波篠山城が挙げられる。さらに、江戸城建設にも高虎が関わっていた形跡もあるし、高虎の城作りは他の城を作る時もおおいに参考にされたようだ。

アーキテクト 藤堂高虎

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こうした城たちはなぜ築かれたのだろうか。西国大名の牽制と、豊臣秀頼のいる大坂包囲網というのが藤田氏の見解だ。だとすれば藤堂高虎の役割は、「ストラテジストである徳川家康(あるいは側近?)による大坂包囲網としての築城という提案を受けて、築城に必要となる要件を定義し、それを実現するためのアーキテクチャを設計し、築城を主導した」ということになろう。

1615年の大坂の陣で豊臣家が滅んで元和偃武と称される平和の時代になると、西国大名の牽制や大坂包囲網はもはや不要となったし、軍事施設としての城も重要性は低くなった。しかし、高虎の城作りは後世にも大きな影響を及ぼし続ける。宇和島や今治の町並みの基礎は、今でも高虎のプランがもとになっている。藤堂高虎が進めた城作りは同時に、城下町作りでもあったのだ。

こうして、城作りが町作りであったことに着目すれば、藤堂高虎が設計したアーキテクチャは現在にも影響しているといえそうだ。優れたアーキテクチャが時代を超えて生き続ける例といえるかもしれない。

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